今回は、妹島和世という偉大な建築家の思想をもとに、 珍しく建築に関する内容を軸に 文章を書かせていただきたいと思います。
それではさっそく、、、
妹島さんの建築の根本には、「行為」 人にとってより近い、インテリアから派生されるような、 建築を構成しているように感じていました。
ぼくの中で建築とインテリアの大きな差として、 空間を俯瞰的に見るのか、主観的に見るのか、 ということが大きな違いであるというように考えています。
都市にとって、街にとっての幸せとは、 どうあるべきか、ということを軸に 空間を構成する建築と、
人にとってより近い視点で、 アイレベルで空間を構成するインテリア、
というような認識があります。
それに対して、妹島さんの住宅、 建築からは、人の「行為」や「感情」というものが 根本に存在しているように感じます。
そこの根本にはどういった経緯があって、 妹島さんのどのような思想が存在しているのかということに 視点を置いて文章を書かせていただきたいと思います。
妹島さんの建築に対する思想には、 篠原一男をはじめとした、 篠原スクールの思想が強く反映されているといいます。
そこで特に強く感じることは、 ヒエラルキーに対する違和感をデザインを 行う上で慎重に取り扱っているということです。
住宅における、主寝室、子供室、居間、キッチンダイニング などの生活の中で必要となる室の間に生まれる ヒエラルキーをゼロベースとして構成し直すことで 新しい空間を生み出そうとしているように感じます。
デザインが、単に<もの>の造形とその審美性あるいは、 加工・生産および消費といったことだけに集中しがちであることを、 避けるためには、<もの>と人間、そして人間同士の関係、 ひいては社会的な関係においても、分離不可能といえる 複雑多岐な、<もの>の存在についての思考なしでは考えられない。
というような、室内建築と呼ばれる世界からの影響は 強く存在しているように感じます。
「室内建築」というワードから連想される 二人の家具・インテリアデザイナーと 一人の建築批評家の存在があります。
大橋晃朗さんと倉俣史朗さん、 そして、多木浩二さんです。
多木浩二さんと妹島さんの対談の中で、 妹島さんはこのような言葉を残しています。
取り掛かっている建築に与えられる条件、 あるいはシステムと言ってもいいのですが、 それをできるだけ露出させていくこと、 そうすることで社会を反復するのではなく、 まだわからないでいる社会的、あるいは 文化的な何かが、建築を通して捉えられるかもしれない。 そんなところから建築を考えている。
この文章から感じられることは、 上にも記したように、 建築をただ単に造形として 捉えているのではないということです。
建築を建てる、という行為の裏にある、 建築が存在すべき目的、
建築という行為を通して、 社会的な問題をものや図式として 形態化することが根本にあるように感じています。
そして、
権力が一方向に振り下ろされることに対する無意識の肯定に 強く嫌悪感を抱いていた、という点では、 倉俣史朗さんの中にもあったような、 日本の社会に対する共通の認識が感じられます。
妹島さんは、独立して間もない1990年に 遠藤照明の依頼によって照明器具を設計しています。
この照明を設計するに置いて、 妹島さんの残した言葉からは、 特に倉俣さんの意思、思想を引き継いでいる と思える言葉を残しています。
照明器具は、建築と一体となったものと、 フロアスタンドのように独立したものとに 二分されている。
そんな中で私は。建築に組み込まれてもおらず、 しかも、照明器具単体としても独立していないーーー。 そんな「あいだ」で明かりを考えていきたい。 <照明器具にもなりうるような、光っているもの>として、 照明を計画していきたい。
この本の筆者である服部一晃さんは、 このことについて、
一つのものに複数の機能を統合することによって、 分離し、階層化していたはずの建築と照明器具に 平等な関係をつくり出している。 これが倉俣から妹島に受け継がれた、 「ヒエラルキー解体」の手法である。
というように文章を書いています。
ぼくはこのことに対して、 「ヒエラルキー解体の手法」というような 表現に少し違和感を感じます。
手法として、倉俣さんや妹島さんの思想を 表現してしまうのは、なんだか腑に落ちません。
お二方にとって「ヒエラルキー解体」という行為は、 建築、デザインをする意味でもあり、 使命感のような、宿命ともいえるような、
そのようなものだと感じています。
という話は置いておいて、 倉俣さんと妹島さんとの共通する思想は 家具やインテリア、建築という枠を超えて 繋がっている作品は他にもあります。
倉俣さんの<引き出しの家具>では、 入れるものの内容から引き出しの大きさを決めるのではなく、 ドライな数式によって生まれた引き出しのカタチを 先行させることによって、引き出しが人間に対して、 どのように引き出しを使うのかを問いかけるような 家具をつくっています。
それに対して、 妹島さんの<スタッドシアター・アルメラ>では、 廊下を含んだあらゆる部屋を等価に並べることによって 廊下なのか、部屋なのか区別のつかない曖昧な大きさの部屋 を生み出しています。
そのような部屋が並ぶことによって、 カタチが人間に対して「どのように使えば良いか?」 ということを問いかけるような関係を生み出しています。
このように倉俣さんと妹島さんの間には、 「機能に対する疑問視」というような違和感を、 建築や家具として形態化しているという 共通の思想があるように感じています。
ということで今回は、 妹島さんという偉大な建築家の思想を 読み解いていくという文章を書かせていただいたわけですが、
その背景には、篠原スクールの思想や、 多木浩二さん、倉俣史朗さんなどの 存在があることがうっすらと見えてきました。
まだまだ妹島さんの思想を読み解くには、 知識量も文章力もかけていると 痛感する内容ではありますが、、、
その奥には、ぼく自身デザインをしたいと思う 根元でもある、
「機能とは?」 「機能的であるということとは?」
そのような疑問に対する一つの答えが あるように思えてなりません。
引き続き、妹島さんの思想を軸に 様々な方向から考えていきたいと思います。
ということで、建築を学ぶ学生として、 建築に関する文章を書いてみたわけですが、
正直これまで建築に対して、 インテリアや商業ほど興味を 持てていなかったのも事実です。
ですが、建築、インテリア、商業にかかわらず、 デザインという行為の根本には、 何か共通の軸があるべきだと、
その軸は何なのか。
そこを突き止めようとすることは、 ぼく自身生きていく上でも、 とても大切なことのように感じています。
それでは本日も長くなってしまいましたが、 最後までお付き合い、ありがとうございました!
参考:妹島和世論 マキシマル・アーキテクチャー I 著者:服部一晃
簗瀬 晃希 / kouki yanase